≪山縣勝見の生涯 その6:ヨーロッパ海運関係者との折衝≫
昭和26年(1951) 4月後半、ダレス特使が離日してまもなく、山縣たち海運界首脳のもとに腑に落ちないニュースが外電を通じてワシントンから伝えられました。米国務省当局が、当時討議されている対日平和条約の中で、日本の海運・造船の能力を制限すべしという英連邦の要請に同意するかもしれないと示唆したものでした。
山縣たちは、日本海運制限への意図を英国が依然として持ち続けていること、米国政府筋においても、平和条約の早期締結のために、その障害のひとつになっている海運問題について、この際英国の主張を入れてはどうかという意見が一部に有力になっていることを知っていました。
ダレス特使がこういった論調に同意することがないということは、ダレス特使から直接聞かされていたことではありましたが、山縣は平和条約締結前のこの機会に、直接米英両国を訪問し、海運関係者と会談して、この問題の解決に努力しようと思い立ちます。
昭和26年(1951) 6月3日、山縣は羽田を発ち、リスボン(ポルトガルの首都)にて開催された国際商工会議所総会に日本代表として出席し、総会に出席した各国代表に対して日本海運・造船の再建について訴えました。これは終戦後日本が国際会議に出席した最初のものでした。
次いで山縣は、吉田総理の要請を受けてスイスを経て英国に赴き、時の英国運輸大臣バーンズと会見しました。丁度山縣がロンドンに滞在中、米国のダレス大統領特使が平和条約草案の最終
的折衝のために英国を訪れましたが、英国側の日本海運再建を制限しようという姿勢には相当頑迷な所があり、ダレスはとうとうその頑迷さに辟易して憤然としてロンドンを去り、パリに飛んだといわれています。
その時の英国政府の驚きは大きく、ついに辞を低くしてパリよりダレスの帰英を乞い、ついにダレス草案を受諾して米英共同提案の形を採るに至ったと、山縣勝見はその著『風雪十年』で述べています。
山縣は次の訪問国独・仏でも海運関係の人々と会い、海運関係について懇談しました。特にドイツの船主協会会長ステッカー博士からは、敗戦によって無一物になったドイツ海運が如何に
過酷な占領政策に苦しんでいるかを聞き、その夜2人は、ホテルの食堂の薄暗い灯火の下で、日独両国海運再建のためにお互いに協力することを誓い合いました。
欧州訪問を終えた山縣は、昭和26年(1951) 7月11日、ハンブルグより空路ニューヨークに到着し、直ちに米国船主協会モルガン会長はじめ海運界首脳と懇談する機会を持ち、日本海運再建に対する日本海運界の意図をよく説明し、その理解と協力を求めました。
次いで山縣はワシントンに赴き、国務省を中心とする政府当局と陸海軍当局、上下両院特に上院を中心とする国会、ワシントンに対外活動の本拠を有する米国海運連盟などに対し、日本海運制約排除のための活発な折衝・工作を始めました。