10/01/12
≪序文から≫
≪目次≫
≪執筆者紹介≫
≪序文から≫
昨年の12月1日に公益法人改革3法が施行となり、新しい公益法人制度がスタートした。
新しい制度のもとでは、「一般財団法人」か「公益財団法人」のいずれかを選択しなければならない。
国からの助成を受けず、資産の運用で成り立っている当財団にとっては、配当益に20%課税される「一般財団法人」の選択はなく、公益性の認定を受けて「公益財団法人」となる以外に道はない。
当財団が、公益認定を受けるに当たっては、年報や山縣勝見賞などは評価されるものの、公益認定の重要要件である「不特定かつ多数の者の利益に寄与するもの」という点では、現状のままでは認定は受けられないだろう。
年報や支援事業を公募という形を取れば、この問題はクリアーできるとの指摘もあり、来年からは年報の編集方針を変えざるを得ない。
また、酒井先生の「21世紀の海洋教育とは」も参考にさせていただき、従来の海事研究中心から海洋教育にも軸足を置くことも検討しなければならない。
今年の年報は従来と視点の違う論文も多く、ジェンダーの観点から女海賊を分析された石田先生の「女性海賊史序説」は従来の年報にはないものである。
我々が港と云えば船と考えるところを、港を文化の入口ととらえられた、小林先生の「港都横浜の150周年」は横浜港開港150周年記念論文としては特異である。
海賊に関して取り締まりの法的根拠となる国際法の問題点を指摘された、今年度「山縣勝見賞」を受賞された逸見先生の「国際法における海賊行為の定義」と海外拠点の内部化と委託を比較分析された星野先生の「海運企業のグローバル・オペレーションを支える組織の分析」は我々が見逃しがちなテーマである。
「シッピングエコノミスト」で高く評価された吉田先生とオカン・ドゥル先生の共同研究「統計・ファジー統合型時系列予測と意思決定型予測の比較研究」は今後のマーケット予測の指針となると確信する。
柴田先生の「戦後経済の流れと港湾政策の検討」は今号で完結した。最後に港湾労働・海上コンテナ陸送の安全性の法制化の必要性に触れられたのは港湾の隅々まで見てこられた柴田先生らしいご指摘である。
競争力の高い港湾であるためには費用よりサービスが重要であると説かれた二村先生の「港湾競争力に関する考察」も新しい提言である。
今年も内容の充実した第58集「海事交通研究」を発行できたのも諸先生方のおかげと感謝申し上げるしだいである。
2009年11月
財団法人 山縣記念財団
理事長 宮都 讓
12月下旬発行後、海運関係の学者・研究者の皆様や国立大学法人、公立および私立の大学図書館・研究所・資料館・一部の企業に配本しました。関心をお持ちの方、購読をご希望の方は、下記までe-mail又はお電話にてお問合せ下さい。
又、本誌をお読みになってのご感想・ご意見なども是非お寄せ下さい。
財団法人 山縣記念財団
お問い合わせフォーム
TEL(03)3552-6310
≪目次≫
序文 ………………………………………………………………………… 宮 都 讓
(㈶山縣記念財団理事長)
【特 集】
港都横浜の150年
~関東大震災を境に変質した固有の港湾文化~ ………………………… 小 林 照 夫
(関東学院大学文学部教授)
21世紀の海洋教育とは
~海洋基本法制定後の海洋教育に関する提案~ ………………………… 酒 井 英 次
(海洋政策研究財団 海技研究グループ国際チーム長
兼海洋教育プロジェクトリーダー)
Comparative analysis of statistical and fuzzy integrated time series and
judgmental forecasting: an empirical study of forecasting dry bulk shipping index
(日本語訳)統計・ファジー統合型時系列予測と意思決定型予測の比較研究
~ドライバルク運賃指数の予測に関する実証分析~
………………………………………………… オカン・ドゥル
(イスタンブール工科大学・海上輸送・経営工学科・
神戸大学大学院海事科学研究科博士後期課程)
吉 田 茂
(神戸大学大学院海事科学研究科教授)
海運企業のグローバル・オペレーションを支える組織の分析 ………… 星 野 裕 志
(九州大学大学院経済学研究院教授)
港湾競争力に関する考察 ………………………………………………… 二 村 真理子
(東京女子大学現代教養学部国際社会学科准教授)
国際法における海賊行為の定義 ……………………………………… 逸 見 真
(独立行政法人海技大学校助教授)
女性海賊史序説
~18世紀カリブ海の海賊社会におけるジェンダー研究~ ………………… 石 田 依 子
(独立行政法人国立高等専門学校機構
大島商船高等専門学校准教授)
戦後経済の流れと港湾政策の検討(後編・1983年以降)…………………柴 田 悦 子
(大阪市立大学名誉教授)
執筆者紹介
【追 悼】
下條哲司先生を悼む ……………………………………………………… 吉 田 茂
(神戸大学大学院海事科学研究科教授)
山縣勝見賞についてのお知らせ
≪執筆者紹介≫
(掲載順)
小林 照夫(こばやし てるお)
1969年関東学院大学大学院経済学研究科修士課程終了。1978/79年英国・エディンバラ大学大学院経済学研究科留学。現在関東学院大学文学部教授、同大学大学院文学研究科指導教授。専攻分野は近代イギリス史、日英比較文化史論、都市形成史、港湾史。日本港湾経済学会会長の他、日本学術会議経済政策研究連絡委員会委員、関東都市学会理事などを歴任し学会でも幅広く活躍している。『スコットランド産業革命の展開―エディンバラ経済圏を中心に』、『巨大都市と漁業集落―横浜のウォーターフロント』(1992年日本港湾経済学会北見賞受賞)、『スコットランド首都圏形成史―都市と交通の文化史論』、『日本の港の歴史―その理念と現実』、『スコットランドの都市―英国にみるもうひとつの都市文化論』(2002年日本都市学会賞(奥井記念賞)受賞)など多数の著書がある。
酒井 英次(さかい えいじ)
1994年日本大学法学部卒業後、海洋政策研究財団に入り、現在海技研究グループ国際チーム長兼海洋教育プロジェクトリーダー。主な研究・活動テーマは海洋教育や沿岸域管理で、『日本の海岸はいま』(日本財団)、『消えた砂浜』(日経BP)、『海のトリビア』(日本教育新聞社)、『BE-PAL海の遊び入門』(小学館)などの執筆プロジェクトに携わる。主要論文として、「総合的な学習の時間への支援~東京都月島第三小学校との事例~」(単著)、「海洋教育の普及に向けた実践的取組から探る教員と外部機関の有機的な連携」、「海洋基本法の成立と海洋教育の今後」、「海洋教育の推進等」、「海洋基本法制定後の学校教育における海洋教育」、「海外の海洋教育の現状と課題」、「海洋教育カリキュラム試案」(以上共著)がある。
Okan DURU(オカン ドゥル)
イスタンブール工科大学・海上輸送・経営工学科においてトルコの輸入石炭輸送の需給分析により修士号を取得。航海士として乗船の後、ドヌヤ経済新聞海洋課勤務を経て、2007年国費留学生として来日。2009年9月、神戸大学大学院海事科学研究科に
おいてドライバルク市場の運賃予測研究によって修士号を取得。現在、神戸大学大学院博士後期課程に在籍し、海運市況・産業動向の意思決定型予測法と統計的予測法及び、海運市場の意思決定支援システムの構築について研究中。主な論文にComposite Forecasting:A new approach for forecasting shipping markets”(IAME ProceedingsApril, 2008), ”Market sychology:A sentimental approach to forecasting”(Lloyd’s Shipping Economist, August, 2008)がある。所属学会は、International Association of Maritime Economists, International Institute of Forecasters 及び日本海運経済学会。
吉田 茂(よしだ しげる)
1973年神戸商船大学(現在の神戸大学海事科学部)商船学部航海学科卒業。同年(財)海事産業研究所に入る。その後神戸商船大学商船学部助教授、教授を経て現在神戸大学大学院海事科学研究科教授。博士(商学)。研究分野は、海運/交通経済・経営学。主な著書として『現代日本海運業研究』(1997年日本海運経済学会賞及び住田海事奨励賞受賞)、『新版国際交通論』(共著)があるほか、「海運企業成長に関する一分析」(第1回(1992年)日本海運経済学会賞受賞)はじめ日本海運業の企業戦略や海運市況などに関する多くの論文がある。所属学会は、日本海運経済学会(副会長、前「海運経済研究」編集委員長)、日本交通学会及び日本港湾経済学会。山縣記念財団元研究員、元評議員。
星野 裕志(ほしの ひろし)
慶應義塾大学法学部政治学科卒業。米国ジョージタウン大学経営大学院修士課程修了(MBA)。日本郵船(株)、神戸大学経営学部・経済経営研究所を経て、現在、九州大学大学院経済学研究院教授、神戸大学海事科学部客員教授として、ビジネススクールを中心に教育・研究活動に携わる。専門分野は国際経営、国際物流。主要論文として「定期船海運業における戦略的提携-船社間の協調と競合-」(1999年日本海運経済学会賞受賞)、「海運企業のグローバル展開とマネジメント」(同学会2004年度ベスト・ペーパー賞受賞)がある。科研プロジェクト「非製造企業のグローバル・オペレーションとマネジメントの適合性」代表、国土交通省・九州経済産業局・兵庫県・福岡県・福岡市などの各種委員会委員、市民活動など幅広い活動に従事する。所属学会は、日本海運経済学会(常任理事)、国際ビジネス研究学会(理事)、組織学会、多国籍企業研究学会(理事)、The International Association of Maritime Economists。
二村 真理子(ふたむら まりこ)
東京女子大学文理学部社会学科卒業。一橋大学大学院商学研究科博士後期課程単位取得の上退学。愛知大学経営学部講師、助教授、准教授を経て、現在、東京女子大学現代教養学部国際社会学科経済学専攻准教授。博士(商学)。専門分野は環境経済学・物流論。主要論文として「企業における物流改革-サッポロビール株式会社を事例として」、「貨物輸送関連の地球環境政策―モーダルシフト推進の方策―」、「環境制約下の交通政策」、「港湾間競争を念頭においた拠点港湾戦略―港湾需要の決定要因に関する分析―」、「中国物流における国有物流事業者の活動-中国遠洋物流有限公司の3PL事業-」などがある他、農林水産省政策評価会水産庁専門部会委員なども歴任した。所属学会は日本海運経済学会、日本交通学会、日本物流学会、公益事業学会。
逸見 真(へんみ しん)
東京商船大学商船学部航海学科卒業後、筑波大学大学院において、経営政策科学研究科企業法学専攻課程、ビジネス科学研究科企業科学専攻課程(企業法コース)を修了。博士(法学)。一級海技士(航海)。新和海運(株)船長を経て、2009年4月より独立行政法人海技大学校に勤務し現在、助教授。研究分野は海運・海洋に関する国際法、海事法。博士論文『便宜置籍船論』(信山社発行)は、 2009年山縣勝見賞(論文賞)を受賞。その他、論文「科学技術の受容における条約法の機能と限界」、「PSCの法的根拠とその課題」、論説「コンラッドの生きた時代の船と船員」などがある。国際法学会、日本海法学会、日本航海学会、コンラッド研究会所属。
石田 依子(いしだ よりこ)
大阪府立女子大学大学院修士課程及び奈良女子大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。現在、独立行政法人国立高等専門学校機構大島商船高等専門学校准教授。専門分野はジェンダー研究。研究テーマは、船舶・船員関連の人文学的研究で、国内外の海運業界におけるジェンダー形成の研究を通して、女性船員の存在意義や社会的受容を分析している。主著に、‘The Modern and Postmodern Narratives of Race, Gender, and Identity: The Descendants of Thomas Jefferson and Sally Hemings’ (単著)、『カリブの風』、『出会いと文化』(以上共著)、主訳書に『サリー・ヘミングス:禁じられた愛の記憶』、論文では、「海運界の女性船員の存在意義―商船高専における女子学生の育成に向けて」、「17世紀の海賊社会におけるエスニシティー海賊社会におけるリバタリア思想の存在とその影響を中心に」などがある。日本航海学会、日本沿岸域学会、日本海事史学会、海事技術史研究会、女性史総合研究会、地域文化学会、The Society for Nautical Research(英国)、The Nautical Research Guild(米国)会員。
柴田 悦子(しばた えつこ)
大阪市立大学名誉教授。博士(商学)。大阪女子経済専門学校(現大阪経済大学)を経て、1951年大阪商科大学(現大阪市立大学)卒。同年大阪市立大学商学部助手となり、経済政策分野を担当。その後交通論特に海運論や物流経済論を担当するが、港湾の研究にも傾倒した。現場に取材したフィールドワークや、国際物流研究者間の共同研究にも力を入れ、その成果は、『港湾経済』、『現代の港湾』、『国際物流の経済学』、『交通論を学ぶ』、『現代の交通政策を問う』、『物流経済を考える』といった著作となって結実した。大阪市立大学教授定年退官後は下関市立大学、名城大学でも教鞭を取り、2000年退職。現在、日本港湾経済学会顧問、日本海運経済学会名誉会員、日本交通学会会員。
(敬称略)
10/01/08
当財団は、海事交通文化の研究及び普及発展に貢献された方々を顕彰し、その研究成果を表彰するため、2008年に創立者の名前を冠した「山縣勝見賞」を設立致しました。この度「2010年山縣勝見賞」の募集を開始致しますので、奮ってご応募下さい。募集要領は以下の通りです。
※※※※※ 「2010年山縣勝見賞」募集要領 ※※※※※
1.応募対象分野 :
わが国の海運、物流、港湾及びそれらに付随する分野における著作(共著も可)、論文並びに業績
2. 募集開始日 :
2010年(平成22年) 1月 5日(火)
3. 応募締切日 :
2010年(平成22年) 3月31日(水)
4. 賞の種類及び対象 :
① 著作賞(30万円) 海事関係の単著又は共著で、 2007年(平成19年) 1月1日から 2009年(平成21年)12月31日までの間に発表されたもの。
② 論文賞(20万円) 海事関係論文で、上記と同期間に発表されたもの。
③ 功労賞(20万円) 海事交通文化の発展に顕著な業績のあった方で、特にその業績の対象期間は問わない。
尚、既に他の学会又は団体などから受賞している場合でも受賞の資格を有するものとする。
5. 推薦・申請手続 :
原則として、海事関係の個人・団体の推薦又は自薦によるものとする。応募される方は、当財団宛所定の推薦/申請書 に当該書籍・論文コピーを1部添付の上、下記住所宛郵送して下さい。 (書籍は後日返却します。) その他詳細は当財団(後記)宛お問い合せ下さい。
6. 受賞者の発表 : 受賞者の氏名等は、2010年6月上旬に本財団のホームページ、その他海事関連のメディアを通じて発表します。
尚、受賞者への贈呈式は、7月20日の「海の日」の前後の日に行います。
以上
推薦/申請書・書籍/論文コピー郵送先:
財団法人 山縣記念財団 (事務局 郷古達也)
〒104-0032 東京都中央区八丁堀3-1-9 京橋北見ビル西館5F
TEL:03-3552-6310,FAX:03-3552-6311
E-mail: t.goko@yamagata.email.ne.jp
2009年山縣勝見賞についてはこちらから
09/12/18
海運計量研究の第一人者であり、当山縣記念財団元研究員、監事の下條哲司先生が、平成21年11月9日に亡くなられました。(享年80歳。)ここに謹んで哀悼の意を表します。
12月16日に当財団が刊行した「海事交通研究」(第58集)に、愛弟子の吉田茂先生(神戸大学大学院海事科学研究科教授)ご執筆の追悼文と併せ、下條先生の略歴及び研究成果一覧を掲載しましたので、以下をクリックしてご覧下さい。
追悼文・略歴・研究成果一覧
又、2007年当財団から刊行された、喜寿記念随想集 「海運研究者の流転人生 」もご覧下さい。
09/09/09
第37回我ら海の子展(主催 社団法人日本海洋少年団連盟 財団法人サークルクラブ協会)が開催され、当財団は今回より後援団体として参加し、「山縣記念財団理事長賞」を創設しました。
山縣記念財団理事長賞は横浜市の小学3年生 片岡圭香さんの「氷川丸」です。
2009年8月21日、ホテル・ニューオータニ(東京)にて、各賞の贈呈式が開催され、当財団宮都理事長より片岡さんに賞状を贈呈致しました。
※各写真をクリックすると、写真が拡大します。
受賞者作品スライドショーです。画面中央をクリックして再生してください。 ※音声はありません。
右下の右から2番目のアイコンをクリックしますと全画面で表示されます。
解除はキーボード左上のEscを押してください。
09/08/07
辰神丸(Tatsugami-maru)
辰神丸
D/W 10,081トン G/T 7,071トン (注)
昭和14(1937)年10月 三菱重工神戸造船所にて建造
遭難: 昭和17(1942)年1月 於バリクパパン(インドネシア)
(注)D/W:重量トン G/T:総トン 貨物船の場合は通常D/Wを使用する。
北米の屑鉄、ラングーンの米、豪州の小麦などの不定期 航路に配船されていたが、太平洋戦争開戦に際し、海軍に徴用され、社船の呉竹丸、漢口丸などとともにフィリピン、ダバオ上陸作戦に参加、続いてオランダ領ボルネオ攻略作戦にも加わった。17年1月21日社船愛媛丸、漢口丸、呉竹丸などとともに、タラカンを出港バリクパパンに向かったが、23日深夜湾内に潜んでいたオランダ潜水艦や米 駆逐艦の襲撃を受けて戦闘となり、呉竹丸などとともに撃沈され3名の殉職者を出した。第2次大戦における辰馬汽船(のちの新日本汽船、山下新日本汽船)最初の社船の犠牲であった。
文中の呉竹丸に乗船されていて遭難された赤崎克巳氏の手記は、こちら です。
(山下新日本汽船(株)「殉職者追悼録」(昭和57年)より引用)
山月丸 (Yamazuki-maru)
山月丸
貨物船 D/W 9,301トン G/T 6,439トン
昭和13(1938)年2月 三菱重工横浜造船所にて建造
遭難:昭和17(1942)年11月 於ガダルカナル島
昭和12年から13年にかけて、相次いで建造されたニューヨーク定期航路用の5隻の内の1隻だが、昭和16(1941)年半ばになると、日米関係が悪化し、パナマ運河通航拒否に合い南米ホーン岬を迂回せざるを得なくなった。
ほどなくニューヨーク航路は中止の状態となり、以後は陸軍徴用船として南方諸地域の航海に従事し 、昭和16年12月20日、フィリピン、ホロ島の攻略に参加した。
翌昭和17年2月18日香港を出て、3月1日ジャワ上陸作戦に加わり、17年11月、僚船山浦丸ほか11隻をもって船団を構成し、ガダルカナル島第2次強行輸送作戦に参加した。
ガダルカナル島へ向かう途中、第3次ソロモン海戦が起こったので、一旦引き返したが再度ガダルカナル島に向かった。ソロモン海戦では圧倒的に優勢な敵の機動力の前になすすべくもなく、その後船団は敵の大編隊に襲われて、護衛艦はじめ各船は必死の防戦に努めたが、たちまち7隻が血祭りにあげられ、山月丸、山浦丸など4隻が残ったが、敵に退路を絶たれ、各々個別にガダルカナル島に向け決死の突入を敢行、陸岸に乗り上げた。 乗組員は陸上に逃れたが、待っていたのは飢餓と病気と連日の激しい空襲であり、互いに励ましあって78日間、約半数の人々(43名)は再び内地の土を踏むことは出来なかった。
尚、その間ほぼ行動をともにした僚船山浦丸も同様の運命を辿り、45名の殉職者を出した。
(山下新日本汽船(株)「殉職者追悼録」(昭和57年)より引用)
高津丸 (Kozu-maru)
高津丸
上陸用舟艇母船 D/W 3,840トン G/T 5,656トン
昭和19(1944)年1月 浦賀船渠渠・浦賀にて建造
遭難: 昭和19(1944)年11月 於フィリピン・レイテ島オルモック湾
高津丸の生い立ちは、まさに戦争に参加するために生まれてきたようなものであった。 通常、船が竣工するまで工務の監督の下、会社がその進行状況を把握し、すべてのことを熟知しているのが当然のことであったが、本船は秘密裡に建造され、乗組員以外の当社(山下汽船)関係者は誰も、どんな船が建造されているか知らなかった。
高射砲や機銃で重装備された軍艦のような外観と、1万1千馬力のタービンエンジン、21ノットの高速、船腹に上陸用舟艇を満載して、後部扉を開いて飛び出せるような構造をもっていて、部隊、弾薬、糧秣輸送用の陸軍御用船であった。
竣工後、門司/釜山のピストン航海に従事して4航海を平穏無事に過ごしたが、昭和19年10月、米軍がレイテ島に上陸した時点から苛酷な運命が課せられることになった。すなわち、上海において兵員、弾薬、糧秣などを積載してマニラに到着したのが10月27日であったが、レイテ島の攻防戦が急を告げていたため、乗船部隊がそのままレイテ島の増援に向けられることになった。
この輸送作戦を「多号作戦」と称し、特攻船団で、高津丸の加わった航海は第2次輸送作戦であった。10月31日プーラ出帆、能登丸、香椎丸、金華丸の四隻で船団を組み、激しい空襲を受けつつ、11月1日レイテ島オルモック湾に突入、揚陸後マニラに帰港した (この航海で能登丸が撃沈された)。
引き続いて第4次輸送作戦は残った3隻で決行された。この間、日を追って戦局が悪化していった。11月8日マニラを出港した船団は、9日17時、オルモック湾口で猛爆を受けたが、ようやく18時30分湾内に入り、兵員の揚陸に夜を徹して努め、急ぎ10日朝マニラに向け抜錨した。
出港して1時間後、再び米空軍の大編隊に襲われ、各船必死の対空砲火も空しく本船、香椎丸、護衛艦11号が撃沈された。
そして、唯一人の生存者を残し全員殉職を遂げた。一度に104名の犠牲者を出した船は山下汽船運航船舶では他に例をみない。
(山下新日本汽船(株)「殉職者追悼録」(昭和57年)より引用)
辰鳩丸と「ヒ86船団」の悲劇 (Tatsuhato-maru)
辰鳩丸
貨物船 D/W 8,945トン G/T 5,396トン
昭和18(1943)年9月 日本鋼管・鶴見にて建造
遭難: 昭和20(1945)年1月 於仏印(現ベトナム)東岸
大戦も末期になると、日本近海の制空権、制海権はほぼ連合軍の手に握られ、日本への海上輸送路は寸断され、南方から重油や生ゴム、ボーキサイトなどの戦略物資を満載して本土へ向かう航海は決死行であった。船舶は、護衛艦の護衛の下に船団を組んで航行するのが常であったが、その多くは構成隻数も少なく、護衛も脆弱であり、連合軍の格好の標的となった。
昭和20年(1945)1月12日、印度支那半島東岸に於て、「ヒ86船団」(タンカー4隻、貨物船6隻、護衛艦 (「香椎」他海防艦5隻)は、南方の石油、重要物資を満載して帰国途次、米国の主力機動部隊艦載機の反復攻撃を受け、終日に及ぶ防戦も空しく、海防艦3隻を残し、全滅した。
船団の護衛に当たったのは、昭和19年(1944)11月19日に発足し、船団護衛専門に初めて編成された第101戦隊で、旗艦である練習巡洋艦・香椎の他に海防艦6隻からなる戦隊だった。その初陣航海は12月下旬に門司を出港、南方向け船団を護衛して、米航空機や潜水艦の攻撃をかわしながら、昭和20年1月5日 にサイゴンに漸く到着していたが、途中で1隻が脱落し、合計6隻で、サイゴンから門司へ向けての帰途、「ヒ86」船団の護衛に当たることになっていた。
辰鳩丸は、 昭和19年(1944)12月30日、ボーキサイトを満船、捕虜約500名を乗せて、船団とともに昭南(シンガポール)を出港した。既に制海空権は敵の手中に帰し、危険な航海が予想されたため捕虜に格別の給食を行って、船橋付近に土嚢を築かせた。
護衛艦の到着を待ち、1945年1月9日12:00、船団はサンジャックを出発した。辰鳩丸はサイゴンにて捕虜を陸揚げ、再び船団とともに、カムラン湾、キノン湾と仮泊を重ね、20年1月12日早朝キノン湾を出て漸く日本への帰路についた。しかし、ほどなく午前8時40分敵機動部隊から発進した2機の艦載像が来襲し、各船戦闘配置についた。敵の攻撃は反復するたびに機数を増し船団は散りじりになり、次々と敵機の餌食になって行った。
攻撃の小休止が十分、昼食時間を除く日没まで、敵機が頭上に舞っていた。最後まで残った辰鳩丸は、積み上げた土嚢のお蔭で、船体に蜂の巣のように穴をあけられつつ、戦っていたが、船尾に搭載していた爆雷が爆発、船尾付近一帯に火災が発生したため、船長は、最早これまでと陸岸に乗り上げを決意し、坐礁させた。夕闇迫った6時頃のことであった。乗組員に7名の戦死者を出し、陸上に逃れた生存者は、迎えの護衛艦に救われ、シンガポールに戻った。
その後残務整理のため船長以下5名が残留者となり、入院中の三等航海士外1名を除いた本船乗組員は、日本郵船の阿波丸に便乗し帰還の途中、台湾海峡烏垢嘆の南西24マイルの地点で米潜水艦により撃沈され、全員不帰の客となった。昭和20年4月1日午後11時30分頃のことであった。残留者は終戦後無事帰還することができた。
辰鳩丸に乗船されていて遭難された小松勝利氏の手記は、こちら です。
(山下新日本汽船(株)「殉職者追悼録」(昭和57年)より引用)
その他関連サイト
09/08/07
太平洋戦争(注1)勃発の直接の原因としては、わが国の中国侵略(日中戦争:1937年~1945年)
に対し、アメリカ、イギリスが中国からの撤兵を求め日本の経済封鎖をしたことに、日本が反発した
ことから端を発したと言われています。
石油・資源確保の道を連合軍の経済封鎖により失ったわが国が開戦にあたってとった基本方針は、
南方の資源地帯を占領し、そこから戦争遂行と国民生活に必要な石油、鉄鋼、非鉄金属、ゴム、ボーキサイトなどを確保するというものでした。
広大な西太平洋全域に及んだ太平洋戦争の勝敗を左右するカギは、何と言っても「海上輸送の確保」でしたが、わが国海軍が、日露戦争以来伝統としてきた大艦巨砲主義の艦隊決戦を作戦の中心にし、資源確保のためにシーレーン(海上輸送路)を通う輸送船の護衛には殆ど注意を払っていなかったということが敗因の原因の一つとして挙げられるようです。
一方、米国は、自国輸送船団護衛のために巡洋艦、駆逐艦、空母などからなる約200隻を超える艦船を準備するとともに、日本の民間商船攻撃のための潜水艦を西太平洋全域に配備し、日本のシーレーンの破壊を目論見ました。
日本の陸海軍は、軍事優先の見地から、作戦行動に参加した徴用船こそ海軍の艦船によって護衛しましたが、前線部隊の兵力・物資の補給のため、或いはわが国生活物資の補給のためのロジスティクス(注2)を重視しない結果、資源の輸送に当たった輸送船は当初単独輸送を強いられることもあったり、船団方式を取っていても弱体な護衛で、米軍の格好の餌食になりました。
こうして戦争が進むにつれて、潜水艦の魚雷攻撃や空爆、触雷、砲撃などにより、民間商船等の多くが失われ、その補充を図るべく「戦時標準船」という資材・工程を簡略化して大量生産した船や、更には機帆船や漁船も駆り出されましたが、そのような船もまた、ほとんどが犠牲になりました。
南方各地が激戦の中心となっていく中で、満蒙などに温存されていた陸軍の精鋭部隊は、輸送船で占領各地に輸送されていきました。その途中で輸送船が撃沈され、多くの軍人が戦わずして海の藻屑と消えていきました。
そして非戦闘員ながら、戦闘地域に赴き、本土と前線部隊との間の海上輸送に命がけで取り組みながら、犠牲になった6万人 に上る商船・機帆船や漁船の乗組員のことも忘れてはなりません。船員の損耗率(人口比の死亡率)は43% と、軍人の損耗率(陸軍20%、海軍16%)を上回り、又、15~16歳 といった年少船員の犠牲が多かったことも特筆すべきでしょう。
以下にその喪失した民間船と乗組員(船員)の数を掲げ、謹んで哀悼の意を表したいと思います。
太平洋戦争で失われた船(除・軍用船)
:
7,240隻
内 官・民一般汽船
:
3,575隻
機帆船 (機械と帆で走る船)
:
2,070隻
漁 船
:
1,595隻
死亡した 「乗組員」(船員)
:
60,608名
〔注〕
1. 太平洋戦争:第二次世界大戦の一環として、日本が米・英・中国などの連合国と戦った戦争。
アジア地域を舞台にした戦争も含めたということを明確化するため、「アジア・太平洋戦争」或い
は「大東亜戦争」という呼称もあります。
2. ロジスティクス:元々「兵站」(へいたん)と訳される戦争用語で、軍隊の後方にあって、武器・
食糧・燃料・生活物資・医療などの後方支援・後方補給などの労務全般をさす言葉ですが、
今日ではビジネス用語として転用され、モノの流れを、調達・生産・輸送・保管・流通・販売
までの全体的な流れとして統合し、効率化するための戦略として捉える場合の概念になって
います。
09/08/06
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09/08/04
7月15日(水)「2009年山縣勝見賞」の受賞者3名をお招きし、海運クラブにて贈呈式を開催しました。
受賞者との記念写真をアップしました。
左から 北見俊郎氏(功労賞)、逸見真氏(論文賞)、中村眞澄氏(著作賞)及び当財団 宮都理事長(写真クリックで拡大します)
尚、受賞内容は以下の通りです。
・著作賞(賞金30万円)
商船三井海法ゼミナール編、中村眞澄氏監修
『最新海事判例評釈第Ⅲ巻』
(早稲田大学海法研究所出版、2008年3月発行)
受賞者(中村眞澄氏)略歴:
1927年東京都生まれ
1953年早稲田大学法学部卒業
早稲田大学法学部助手、講師、助教授を経て、
早稲田大学法学部教授。現在名誉教授。
受賞理由:海法に関するあらゆる問題を詳細かつ学術的に集大成したもので、
分析手法や分析結果などの点で優れていること。
・論文賞(賞金20万円)
逸見真氏執筆『便宜置籍船論』(信山社、2006年12月発行)
受賞者略歴:
1960年埼玉県生まれ
1985年東京商船大学商船学部航海学科卒業
2001年筑波大学大学院経営政策科学研究科企業法学専攻課程修了
2006年筑波大学大学院ビジネス科学研究科(博士後記課程)
企業科学専攻課程(企業法コース)修了
新和海運船長を経て、2009年4月より独立行政法人海技大学校講師
受賞理由:便宜置籍船に関する現状やそれにかかわる問題点などについて様々な角度
から詳細に分析するとともに、船舶国籍の有すべき実質性とは何かについて克明に論述 し、便宜置籍船の本質を解明した優れた論文であること。
・功労賞(賞金20万円)
北見俊郎氏(青山学院大学名誉教授)
受賞者略歴:
1924年 神奈川県生まれ
1954年立教大学大学院卒業
青山学院大学、静岡学院大学、関東学院大学各教授を経て
現在青山学院大学名誉教授、北見港湾総合研究所代表
受賞理由:日本の港湾経済研究において港湾産業と雇用の前近代性の構造に注目し、
これを分析し、港湾の近代化を主張することで研究業績を磐石なものとするとともに、 日本港湾経済学会の創設・発展に大きく貢献し、後進の指導や業界人に対する啓蒙にも 力を注いできたこと。
09/07/14
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