≪山縣勝見の生涯 その1: 昭和初頭、青年重役として≫
辰馬一門の本町辰馬家の6人兄弟の末っ子(三男)に生まれた辰馬勝見は、神戸一中、第三高等学校(京都)を経て、大正14年(1925)東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、直ちに辰馬家の経営する辰馬海上火災保険(株)に入社し、外国部勤務となって海外再保険取引の業務に携わりました。この頃は保険に関する文献は少なく、殊に海外再保険に関するものは皆無に等しく、外国文献(原書)で学ぶ以外知る術はあませんでした。若き日の勝見は名だたる勉強家をもって知られ、原書を片っ端から読破してまもなく社内随一の保険通となり、役職員はその能力に舌を巻いたといわれています。
やがて、辰馬本家出身で当時の社長であった辰馬吉左衛門(13代目)にその能力・識見を見込まれた勝見は、辰馬社長の弟、浅尾豊一の次女で東京新川の酒問屋、山縣家の養女となっていた富貴子と結婚して、後継者のいなかった山縣家を再興することになります。
昭和の初頭、金融恐慌による不況の影響とロンドンの再保険取引の失敗により辰馬海上の経営が悪化し、取締役会の大勢が会社解散論に傾いた時、若き外国課課長であった山縣勝見は敢然として立ち上がり反対します。当時山縣は経営上の意思決定に参画できる立場にはなかったものの、損害保険事業の使命、社員の生活の安泰、家門の名誉等の理由を挙げ、会社再建の必要を説きました。山縣の熱誠に動かされて、ついに辰馬社長は会社の再建を決断し、山縣に会社再建策の作成を命じます。山縣は、当時東京海上の会長で、損害保険業界の重鎮であった各務鎌吉(かがみけんきち)に会い、経営危機に立ち至った経緯を詳細に説明し、会社再建の構想を述べるとともに指導と援助を要請します。各務は人格・識見とも優れた人物で業界の指導的地位にあり、山縣はかねて尊敬してやみませんでした。しかも東京海上は辰馬海上の大株主で、取引の上でも緊密な関係を保っていました。昭和5年(1930) 12月、東京海上火災保険(株)取締役会長各務鎌吉と辰馬吉左衛門との間で会社再建のための覚書が取り交わされ、未払込株金の追徴、減資後の増資などを柱とした再建策が確実に実行に移されるとともに、山縣は若くして常務取締役に栄進しました。
一方、辰馬家の経営するもう一つの「海運部門」である辰馬汽船の取締役にも昭和7年(1932)12月就任し、次いで同9年(1934) 5月には副社長兼専務取締役に選任されます。この年、台湾米受荷主磯野銀策商店に対する無証(B/Lなし)荷渡し事件が発生しましたが、この時も山縣は、銀行や磯野商店など関係先と交渉し、損失を未然に防ぐことが出来ました。
やがて、昭和13年 (1938) 10月には辰馬汽船(株)社長、同18年 (1943)10月には辰馬海上火災保険(株)社長に就任し、両社の経営の最高責任者として活動していくことになります。